聴音って何?その2

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興味を持って読んで下さった方がおられたので補足の形で書いてみる。

随分前に書いた文章の繰り返しになるが、

旋律ないし、和声(音が同時に鳴るもの、としておく)の二種類が基本となっている。

ピアノで教師が、まったく知らない「曲」を弾く。初めは聴くだけ。二度目も聴く

だけの場合もあるが、譜面に書いてもよい場合もある。

大体五回くらいで、書く時間も与えられるが聴いたものをすべて譜面に落とさねばならない。

これが聴音である。

楽器を弾く人、曲を書く人、歌を歌う人、指揮をする人、音を作る様々な人、そういう人に

欠かせない能力なのだ。

そのレベルというのもまさに千差万別である。

さて、これが天才の域に入るとどうなるか。これまた既出の自分のブログからで恐縮だが、

書いておく。

『爾来、教会音楽というと門外不出の曲が多々あり、今のご時世と違って録音など全く

出来ないロココ時代、モーツァルトがまだ子供の頃のこと。

ある日ある教会で、ミゼレーレという曲が演奏された。これは当時、楽譜の持ち出しを禁止

されていたもので、勿論少年モーツァルトも初めて聴いたのである。四声と五声の二重奏、

と言っても、それぞれが四つのパートと五つのパートに分れているので、九つのパートが入り

組んだ宗教音楽で、アレグリという、当時は良く知られた作曲家によるものであった。

演奏時間にして、十数分であろうか。

大人たちと共に教会でその曲を聴いた少年モーツァルトは、曲に大いに満足したようである。

宿に戻ってか食事時か、とにかく、大人たちは口々に素晴らしい曲であったとほめそやす。

あの曲の譜面が手に入ればなあ…

すると少年モーツァルトは言う。僕、あの曲覚えてるよ!

そしてすらすらと、五線紙にミゼレーレ全曲を書いてしまう。

大人たちがそれを読むと、確かに先ほど聴いた音楽そのものであったという。

殆ど間違えのないものだったのだ。』

これをやれ、と言われて出来る音楽関係者は恐らくかなり少ないと想像できる。

勿論たぐいまれな記憶力と聴音能力があれば別であろうが。

因みに私の通っていた学校で、一番聴音の出来るレベルの生徒たちは、

ピアノをこぶしで適当にバーンと叩く。その、叩いた本人さえどの音を弾いたか

判別出来ないであろう音を全て聴き取ってしまう、そういう能力を持っていた。

恐るべし。

ちょっと音が聴ける。そんなささやかな自尊心が吹き飛ぶには充分である。

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