ショパンの練習曲集 作品10&作品25 

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ある衝撃的な…実際にはそんな「緩い」表現では到底言い表しきれないような本の、

さわりの部分を読んで数十分後に私は半ば茫然と、その本を閉じた。

なんだか自分がどこにいるのか、何をしているのか、分からなくなってしまったような、

精神的に迷子になってしまったような、とてつもなく心細く、また恐ろしいような感覚に

捉われたのである。

何かで今日それまでの「自分」にせめて戻らなければと切実に思った。

その時私は音楽を欲した。

以前読んだ書物にあった、「音楽だけが確かにそこに存在していた」という概念が、

確かに私の中にもあって、それにすがるのが良いと判断したのだ。

数枚のCDがパソコンの前にあり、専用の再生機にその中の一枚を選んで再生した。

ショパンの24曲からなる練習曲集である。

練習曲といっても、例えばツェルニーや、リトルフィッシュナーや…指の練習だけのものとは

違うこの練習曲は、かなりの技術を必要としていて、そもそもが練習というよりは技術のある

者のさらなる技術向上と、それをまた音楽的に奏することを期待して書かれているものだ。

とにかく数曲、すでに第8曲目の、F-Dur の曲を聴きながら書いている私は、本を読む前の

自分に戻りつつある。

バッハやモーツァルトを聴いてしまっていたら、本の衝撃から抜けきれなかった可能性も

あると思うので、選択は間違えていなかったと思う。

別にショパンの練習曲が現実的な音楽だ、などというつもりは毛頭ない。

既に音楽は現にここにあるのだから…

そんなことではなくて、この練習曲を素晴らしい演奏で聴けば、なにかがふっきれるという

勘が働き、それが当たっただけのことだ。

その素晴らしい演奏をしているのは、ポリーニである。

18歳という年齢でショパンコンクールを優勝したポリーニはその時の審査員の一人であった

ルービンシュタインをして、彼はここにいる我々のうちの誰よりも、技術の面から言えば

最も優れているピアニストと言わしめた。

そのような、卓越した技術を既に身に付けていた彼は、しかし、数年、さらなる研鑽のため、

暫く音楽の世界の表舞台に出て来なかった。この天才ピアニストはまた、思慮深くもあったのだ。

長い間、音楽をやる人間の間でまことしやかに囁かれていた話がある。

東洋人が海外のコンクールで優勝、入賞した時。ここでは日本人であるが、

賞を獲ったひとは「つぶされないように」気をつけるよう言われるという。

それは、音楽の世界で、内外で活躍する諸先輩の、忠告かつ警告なのである。

西洋人以外の人々が西洋音楽をやるのに、何かしらの規制がある時代が長いことあった。

私自身、同級生が某国に留学した時の「人種差別」には本当に辟易としたと聞いたり

していたから、案外そういうものだろう、とは思っていた。

この手の問題はなかなか無くなるものではないらしい。

因みにつぶされる、とは、賞を取った人間を演奏会やリサイタル漬けにして、

そのひとの、音楽的才能を枯渇させる、そう言ったことを示している。

精神的に疲弊し、体力も消耗し、音楽を吸収する機会を徹底的に奪われるのだ。

残酷に聞こえるかもしれないが、それが現実だったようである。

最近、アジア各国から、いろいろな楽器や指揮、声楽、作曲で、世界で認められる音楽家が増え、

生き生きとしたようすで活動している姿にほっとするのだが、これには反面、

西洋のひとびとの力の衰えも起因しているのではないか、そんな気もする。

要するに「認めざるを得ないので認める」という姿勢をじんわりと感じるのだ。

それが私の単なる邪推であるかは別にして、そんな事実がないとは言えないと思う。

またまた話は横道にそれたが、この、ポリーニの30歳の時の録音であるショパンの24の

練習曲を聴いていると、この演奏があれば他は要らないのではないか、と思わせるような

すさまじいまでの技術と解釈の集約がこの一枚のCDに入っていると思う。

吉田秀和がこのレコードの解説で、ポリーニの演奏について大層秀逸な表現でそのことを

言い表していたのだが、手元にレコードが無いため、今は正確には書けない。

ひとつ覚えていて、その通りと思うのが、作品10の第2番、この半音階の曲は、ある程度、

早く弾いてしまった方がラクなのであるが、ポリーニは敢えて、ラクなテンポを取らず、

一つのミスも無いどころか、鍵盤に打ちおろす指の正確さの徹底を、当たり前のように

やってのけている、それが凄い、そういう内容だった。

指が早く正確に動くと、はたで見ていると大したものだ、と思うかもしれない。

でも内容によっては、早く弾く方が楽、という場合もあるのだ。

また、恐ろしいことに、ポリーニはこのショパンの練習曲全曲を12歳で完璧に弾き

こなしていたという。

そんな事を考えているうち、気持ちが戻ってきたので、用事にかかろうと思う。

音楽にはこんな効用もある。

※絵画はクロード・ロランの「アポロとミューズたちのいる風景」

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