親愛なるルードヴィヒ-ピアノソナタ「熱情」
なんだか大仰のようだが、10代の頃は全くというほど、ベートーヴェンを
聴くことはなく、自分で弾くのも好んで、という訳ではなかった。
改めるまでもなく、ベートーヴェンにはさまざまな分野で優れた名曲がある。
にも関わらず、ほとんど聴くことがなかった。
これには自分なりの理由があり、聴くとなぜかツライようなところがあって、
それが原因かとは思う。
ところがここ数年来、ベートーヴェンを結構聴くようになったのである。
何がきっかけになったのか、しかとは分からない。
最初にどの曲でそう思ったのかも覚えてはいないのだが、
ああ、いいなあ…とある日聴いていて思った音楽、それが
ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの音楽であったのだ。
それ以来、ピアノ曲はじめ、交響曲、協奏曲、室内楽やチェロソナタなどなど、
さて、何を聴こうか…と思ったときに選択肢の中に、ベートーヴェンが
加わった。
余り親しくも無かった旧友に久方ぶりに会ったら、その人柄に非常に惹かれた、
なんだか、そんな感じである。
先ほどからラジオで聞こえてくるのが「熱情」と呼ばれる(本人がつけた表題ではない)
ピアノソナタで、これはバックハウスで聴き、ブレンデル、ゲルバー、アシュケナージ
あたりでも聴き、ホロヴィッツでも聴き、いま流れているポリーニでも聴いた。
しかし何故かしっくりとくるのは私にはお馴染みのグールドの「熱情」である。
このピアノソナタは確かに激しさとある種の情熱をはらんだ、壮大な曲調のソナタであるが、
今まで聴いた演奏の多くは、だいたいこのようなテンポという基準値に、はずれない演奏で
あるのに、グールドだけは、初めて聴いたときにはまさに度肝を抜かれた。
ここまで遅い「熱情」の第一楽章を聴くのは初めてであったのだ。
数々の、「今までにない」演奏を遺してきたグールドだが、まさかこんなことを「しでかす」とは
思わなかった。最終楽章まで聴いてから、悲壮、月光、熱情と、いかにも日本らしい選択の
CDをもう一度聴きなおした。何度聴いたろうか。
次第に、極端ともいえるそのテンポが気にならなくなってきたのである。
この、気にならないというのをもっと適切な表現はないか探っているのだが、
自分の乏しいボキャブラリーではどうやら難しい。
とにかくしっくりくるようになって、自分の中で、「熱情」はこれかな…という演奏は
気付けばグールドの演奏になっていた。
勿論ほかにも素晴らしい演奏は沢山はあるのだ。
ケンプやゲルバーあたりも良いし、バックハウスは、グールドとは違う意味で、独特の
ベートーヴェンの世界を展開し、魅力的であるしetc.といった具合だ。
でもどんな音楽にも好みというものがあり、また、こういう物が好きという嗜好が
ある。私は「グールドの熱情」が気に入っている。
「熱情」ソナタを全楽章聴いたことがないひとに、いきなりこれを勧めるのは適切では
ないとは思うけれど。
そして、特に気に入っていた訳ではないピアノソナタだったこの曲が、グールドの演奏が
きっかけとなり、興味を持てる曲となったのである。
私が近年、ベートーヴェンの音楽を聴くようになった、聴けるようになった理由を
ぼんやり考えて、もしかしたらそれが理由のひとつかと思うのは、「年齢」である。
私にとってベートーヴェンはある程度の年にならないと聴くのが難しい音楽家だったのだ。
「若さ」が無くなることによって、ようやく、聴けるようになったのではないか。
そんな風に思う。
ようこそ、ルードヴィヒ。
では無くて、
ようこそ、roman。
と、ベートーヴェンがその音楽の館の扉を開いてくれたのかもしれない。